なんだそりゃ、ってな書き出しだが、意味は特にない。日本の歴史にさして詳しいわけでもなく、歴史学とやらに意見があるというわけでも特にない俺には、故網野氏の業績に言及することも特に見当たらない。
それでも、俺は網野善彦の本が好きだった。学生のときから、ちょくちょく読んでいて、その学説を吸収するともなしに、そのまなざしに親しみを感じていた。
中沢新一のやたらと「〜的」を多用するその書き方には、ちょっとうんざりしなくもないが、でも全体として親しみのようなものを感じずにはいられないのは、網野さんのまなざしが生きているからだろうか。
世の中から外れた者こそ、その社会を体現していたりするんだよな。いつだって、きっと。悪党、博徒、そして俺も?
2004年に網野さんが他界した時、僕は南アフリカにいて、日本にはいなかった。亡くなった事実を知るのは、日本に帰ってしばらくしてからだった。そういえば、しばらく触れてなかったな。うん、そうだな、もう一度、会いに行こうと思う。残された本を通して…。
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先生が親友を裏切った場面に、もし俺が出くわしたとしたら、ぶん殴ってやるところだけど、でも、それでも次の瞬間には赦してやるさ。
罪を犯してしまった自分自身を決して赦さない態度はいいけど、それが反省になってしまっては何にもならんと思うよ。俺だって、きっとある部分では先生だし、これまでだって、これからだって過ちを犯すだろう。けど、それを悔やんで反省しても仕方がないよな。
できることは決まっている。人を殺めてしまった罪、その棘を心に、決して忘れることなく、繰り返し繰り返し確かめて、生きる。決して他人には告げることなく、生きる。そして、墓場に。
裏切ってしまったことを親友らに打ち明けられなかった青年期の先生は、すでに晩年にはいなかったのだと俺は思う。晩年にまで先生が周囲の誰にもそのことを秘していたことには、明確に強い「意思」が働いていたのではないだろうか。言えなかったのではない。言わなかったのだ。
決して軽々しく他言してならないこと。僕らの誰が、それほどのことを胸に秘めて日々を生きているだろうか。
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愛すべき新宿無宿たち。今も昔も、変わったようで、変わっていない。
まさに「ナタナエルよ、書を捨てよ。
町へ出よう」
という心境が私のものになったのだ。
『書を捨てよ、町へ出よう』 P257から
寺山は、三年間の入院生活を経て、「実感の手ごたえ」を羨望するようになった。俺は、ジンバブエで交通事故にあい、それからほんの一週間ほどだけど療養して動けなかった時のことを想い起こす。日に日に、町へ出よう、自らの足で歩き、自らの手で触り、自らの全身で表現し合うことを欲するようになったあの日のことを想い起こす。
これからは、どこへ行く?頭でっかちな生活なんてうんざりだぜ。
私が娼婦になったら
いちばん最初のお客は おかもと
たろうだ
私が娼婦になったら
悲しみをいっぱい背負ってきた人
には翼をあげよう
私が娼婦になったら
太陽の下で汗を流しながらお洗濯
をしよう
私が娼婦になったら
誰にも犯サレナイ少女になろう
私が娼婦になったら
悲しみを乗り越えた慈悲深い
マリアになろう
淋しい時にはベッドにはいって
たろうのにおいをかぎ
うれしい時は窓に向かって静かに
次に起こることを待ち
誰かにむしょうに会いたくなった
らベッドにもぐって 息を殺し
て遠い星の声をきこう
『書を捨てよ、町へ出よう』 P222-224から
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1930年代のロス。ヘンリー・チナスキーの少年時代、青春時代の断片。単純に、痛快かつ下品な罵声の嵐、メインストリームから見放された負け犬たちの断片を描いているとしてクローズアップされることの多いブコウスキー作品だが、俺が今感じているのは、何よりも愛そのものを表現しているということである。
不器用な姿をさらしながら、むき出しの愛がこの世界を徘徊している。そいつがブコウスキーだ。
その夏、1934年7月のこと、シカゴの映画館の外でジョン・ディリンジャーが射殺された。彼に勝算は全くなかった。レディ・イン・レッドが彼のことを密告したのだ。その一年以上も前に銀行はすっかり駄目になってしまっていた。禁酒法が廃止され、わたしの父はまたイーストサイド・ビールを飲み始めた。しかし最悪の出来事はディリンジャーがやっつけられてしまったことだった。
『くそったれ!少年時代』P175から
それから、うれしいのは下記のようなセリフを拾ったこと。そういう気質、ある意味でバランス感覚を備えているヤツだとは感じてはいたけれども。マイケル・ムーアじゃないぜ、ブコウスキーだぜ。
わたしは自分に対して一度も面倒を起こしたことがないユダヤ人や黒人に対しては、いかなるかたちであれ直接的な言及をしないようにした。わたしに降りかかる面倒ごとは、すべて白人のキリスト教徒たちによるものだった。たとえば、わたしは気性にしても好みにしても、決してナチではなかった。しかし教師たちは自分たちの反独の先入観でもって、わたしをナチ扱いしたり、ナチと同類だと考えることで、そうした人物に幾分なりとも無理やり仕立てあげてしまおうとした。
『くそったれ!少年時代』P348から
この前後の文章を含めて、言葉だけを抜き取ったら、レイシスト(人種差別主義者)に他ならないだろう。しかし、俺はそうは思わない。レイシストとは無縁のものこそ、時代の空気、環境に敏感に反応し、流されまいと抵抗を示すからだ。だから、ある意味でブコウスキーはバランス感覚に優れていると言えるのだ。
日和見主義の平等主義者は、レイシストと大差ない地平にいるのではないかな。まあ、いずれにしてもどうでもいい話かもしれんがね、眼の前にある酒瓶の真実に比べれば。
では最後に、共産主義者で人類学講師の講義でも抜き出しておくかな。あばよ。
「ポーターハウス・ステーキの料理の仕方だが」と彼は授業で教える。「まずはフライパンを真っ赤になるまで熱し、ウィスキーを一杯飲んでから、フライパンの中に軽く塩を敷き詰める。それからステーキを入れて焼くが、焼きすぎてはいけない。ひっくり返して反対側も焼き、もう一杯ウィスキーを飲む。そしてステーキを盛りつけると、ただちに食べる」
『くそったれ!少年時代』P367から
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人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、そして習わねばならず、忘れねばならず、そして帰ってゆかなければならぬ
そこからやって来た暗い谷へと、労役をまた新しく始めるために
大江健三郎の他作品を含めて、これまでいくども断片的に触れてきたウィリアム・ブレイクの印象は、この作品のイメージに結びつけられるような予感がある。
人間の心象においては、想像力とはまさに開示の経験であり、新しさの経験に他ならぬ。他のいかなる性能よりも想像力は人間の心理現象を特徴づける。ブレイクが明言しているとおり「想像力は状態ではなく人間の生存そのものである」
最後に引くのは、アメリカの独立宣言の主張に対応するとアードマンによって分析されているブレイクの予言詩『アメリカ』から。
朝が来る、夜はしりぞく、見張りは持場を離れる。
墓は破られ、香料は散らばり、木綿の布は巻きあげられている。
死者の骨、覆っていた土、ちぢみこんで乾いていた腱
それらは再び生きかえって震え、息をついて動き、呼吸をし、眼ざめ、
枷と格子が打ち壊された時の、解き放たれた俘囚のように跳りあがる。
粉ひき臼を廻している奴隷をして、野原に走りいでしめよ。
空を見上げしめ、輝かしい大気のなか笑い声をあげしめよ。
暗闇と嘆きのうちに閉じこめられ、三十年の疲れにみちた日々、
その顔には一瞬の微笑をも見ることのなかった、鎖につながれたる魂をして、立ちあがらしめよ、まなざしをあげしめよ。
---- 鎖はゆるめられ、城塔の扉は開かれている。
そしてかれらの妻と子供らをして抑圧者の鞭のもとより帰還せしめよ ----
かれらは一足ごとにふりかえり、それが夢であるかと疑う、“陽の光から翳りはさり、みずみずしい朝が見出された”と歌いながら……
そして明るく晴れわたった夜に、美しい月が喜びをあらわす。
なぜなら帝国はいまやなく、獅子と狼は戦いをおさめるだろうから。
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だいぶ語り尽くされてきた感のある話題の書であるので、ここではひとつのことを中心に感じたことを書き綴ってみたい。本書で触れられている話題の中でも、俺にとっては、何より注目すべきものは、ロングテール現象である。
2004年秋にロングテール論が脚光を浴びたのは、ネット書店がこの構造を根本から変えてしまったという問題提起があったからだ。提唱者は、米ワイヤード誌編集長のクリス・アンダーソン氏。米国のリアル書店チェーンの「バーンズ・アンド・ノーブル」が持っている在庫は13万タイトル(ランキング上位13万位までに入る本)だが、アマゾン・コムは全売り上げの半分以上を13万位以降の本から上げていると発表したのである。
(中略)
ロングテールは長く連なっており、大ヒット依存のリアル世界とは全く異なる経済原則で事業モデルが成立しはじめている。
(中略)
ロングテール派は違う。ロングテール部分の本など、どうせ忘れ去られていてぜんぜん売れていない。何がきっかけでもいいから、その本の存在が誰かに知られることに価値を見出す。
梅田望夫『ウェブ進化論』P100-103
流行からかけはなれた何か、忘れ去られ、埋もれてしまった何かに、再び陽の目を見せることのできる大いなる可能性をインターネットの世界は秘め、今急速に動き出してる。ひとつの要因は、インターネットの低コスト性だ。既存のメディアの金銭感覚では排除せざるを得ない対象にスポットライトが当たる可能性が見出されうるのだ。そして、既存の権威に固まってしまっているシステムから自由なジャーナリズムが生まつつある。次に、選び取る技術の発展がある。検索エンジンの発展など近頃ウェブ2.0としてもてはやされつつある技術に、インターネットの本質は支えられている。
ロングテールの可能性を追求すると、新しい可能性が次々と現れてくるように思える。こんなニッチな話題はたいした反応も得られないだろう、といって引っ込んでしまうのではなく、何がしかの反応は得られるだろう、という姿勢が生み出されつつあるとすれば、いったい何が起こるだろうか。
そして、僕がこれから注目していきたい、あるいは実証していきたいことは、このロングテール現象に影響されたインターネット世界の発展が、生身の僕らが触れ合うこの世界に対しても、ある種の強い影響を与えるようになっていくのではないだろうか、ということだ。
ただの豆知識を披露しあうという話ではなく、ひとりひとりが違っていることを面白いと思える多様性に対する好奇心に満ち溢れた感覚が繁栄していく様を、僕は近い将来の世界として広がっていくのを想像したい。もちろん、可能性はいくらでもある。しかし、グーグルの思想のように、性善説に基づくことなしには、信じることなしには、僕らの未来は危ういように思えてならない。
どんな人であっても代えがたい価値がある。僕らはもしかしたら、ウェブ世界によって、この忘れかけていた思いを再認識させられているのかもしれない。
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僕らは、必ずどこかである種のリスクを選択しなければならない。交通事故にあいたくないから、部屋に篭ってじっとしていればいいんだ、という解決策があり得ないように、明日へ向けて行動するためには、どこかでリスクを選択し、前進する必要がある。
中西準子さんの環境リスク学は、次の一歩を踏み出し、かつパニックに陥ることなく行動するための指針だ。数値で比較する困難さもあり、著者の意見に完全に同意できるわけではないが、安全だ危険だ、と騒ぎ立てるだけではない、バランスのとれた「リスク評価」が必要とされているということには、今はっきりと賛同したい。
キャベツには、49種類の毒物が含まれているという。だからといって、キャベツを食べないというのは馬鹿げている。野菜には発がん性物質もあるが、性がん性物質もあり、栄養素等を考えても、結局のところ食べることで得る利益は大きいのだ。特に大きなリスクを避けるのは当然としても、危険だから避けるべきという単純な選択は、時にバランス感覚を失った選択となりうるのだ。
生態学や毒物に疎い僕が、特に関心を持っているリスクは、本書には特に言及されていないが、犯罪や貧困、戦争に関わるリスクだ。南アフリカにおける最近の犯罪統計に関する記事を思い出す。統計として犯罪率は下がっているのに、人々の感じるリスクは増大しているという実情。これはリスク評価の問題ではないかもしれないけど、それでも、しっかりとしたリスク評価が浸透していないということがこの状況をつくりだしてはいないだろうか。
健康、安全に迷わず飛びつき、危険と聞くとよく見もせずに放り出すのはやめた方がいいんじゃないか。何だって、良い部分もあれば悪い部分もある。そろそろそんな当たり前のバランス感覚に生きる術を僕らは学ぶべきじゃないだろうか。
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僕らは、とかく現代的なるものと、伝統的なるものを比較して、物事を見ることに慣れきってしまってはいないだろうか。そもそも伝統的なるものとは、一体何なのだろうか。
言葉遣いが、思考を固定化していしまうという危険を常々感じている。例えば僕は、「彼はいいやつだ」、ということは極力言わないようにしている。また、僕の嫌いな文句のひとつに「どこにだって、いい人もいれば、悪い人もいる」というのがある。こういった文句によって、たとえ本人がそんなつもりはなくとも、全ての人はいい人と悪い人にわけられる、という単純な善悪二元論に、少なくともいくらかは、とらわれている気がするのだ。
『無文字社会の歴史』は、著者自身の調査、研究、体験等を通じて、僕らの陥りがちなステレオタイプや思い込みの罠から解き放ってくれる。
例えば、17章の「「伝統的」社会という虚像」をみてみよう。
私は、ヨーロッパ勢力による植民地支配の影響が浸透する以前の黒人アフリカ社会を指すのに、「伝統的」という形容を用いることを意識して避けてきた。それは、ある社会とくに非西洋社会を、「近代化された」社会と対置させ、「伝統的」と規定することによって、「伝統的=非西洋的=固定的」「近代的=西洋的=発展的」とみる皮相な二元論にしらずしらず陥る可能性を、基本的な用語からはじめて排除したいと考えたからである。
川田順造 『無文字社会の歴史』P185から
まさに、それは皮相に過ぎないのだが、著者は自身のフィールドである西アフリカはモシ族の社会における明確な例示によって、これを補足する。
以下、簡単に要約する。
南部モシ族の首長の一人、ワルガイ・ナバは、「伝統的」な儀礼の数々を執り行っている強大な首長であった。一方、隣接するラルガイ・ナバは、「伝統的」な儀礼もごく簡略にしか執り行わない首長であった。しかし、よくこの両者の過去をさかのぼって調べると、一見「伝統的」な儀式を保っているように見えるワルガイの方は、第一次大戦以降、フランス植民地行政当局に地位を与えられてから後、格式ある「伝統的」首長としての体裁をととのえ強化するために腐心したことがわかり、一方のラルガイは、より古い時代の系譜はワルガイのものより詳細であるのだが、フランスの侵攻以後には、勢力を失い、「伝統的」な儀礼を簡略化するようになったことがわかる。
つまりこの二人のモシ族の首長は、植民地化以後の外からの力の影響によって、一方は「伝統的」になり、他方は「伝統的」でなくなったのである。
こうした変化を生じさせた過去を十分にたどることなしに、現在だけを観察する者は、「伝統的」とされるものがもつ屈曲した意味に、たやすく欺かれるであろう。
川田順造 『無文字社会の歴史』P188から
2005年末、僕は西アフリカのガーナ共和国に降り立ち、東隣のトーゴを抜け、ブルキナファソへと入った。そうして、本書における重要な舞台のひとつでもある、テンコドゴの町に訪れていた。きれいに伸びる一本のアスファルトの道路、脇道に少し入れば砂っぽい道が細々とつづいていた。
はるかな歴史の上に、今の大地がある。それは一個人が想像するには、あまりあるものなのかもしれない。
けれども、丹念に、一つずつ、自分の足で、人々の声を、過去の足跡を拾い上げていくことで、歴史というのものが時に顔をのぞかせてくれる一瞬がつかめるのかもしれない。
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はたして、こいつはただのステレオタイプだろうか。あるいは、貧乏人の僻みというやつだろうか。ジョン・ル・カレの『ナイロビの蜂』を読むと、このステレオタイプがより深くなる。
なにしろ、主要登場人物ほとんど全てがやな奴なのである。いちいち鼻につく、イギリス人たれ、あるいは外交官たれ、という仕草の細かな描写。一体、著者はどういうつもりでこういったものを描写しているのか、皆目わからない。鳥肌が立つというより、読んでいて腹が立ってくる。しまいには、ただただうんざりというに尽きる。
あらすじは、巨大製薬会社と官僚の癒着、それに立ち向かっていた妻を惨殺された英国外交官が、妻の足跡をたどるというもの。まあ、これもすべてただの舞台に過ぎないのだろう。
いったいこれはサスペンスなのか。ある意味では、これほど緊張感を感じさせない、ひょろひょろな文章というのもなかなかあるものではないよな。
最後まで読了したことは奇跡に近いよ。
今年のアカデミー賞助演女優賞獲得作品の映画は、日本では5月中旬から公開予定だ。これを読んでしまっては、映画にも期待をいだくことは難しいが、見事にこの俺の期待薄という期待を裏切ってくれるといいんだけどな。まあ、どう前向きに考えても、やはり期待できそうにないな。
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自分自身のやり方で、道を歩んでいこうという人には、多少の励ましにはなるかもしれない。
ちなみに、全シリーズ通して、「朝2時起き」というのはメイントピックではなく、タイムマネージメントのような話が主である。
ところで、文中一箇所、イロコイ連邦の格言を引用していたりもした。どの部族が使うものかは、書かれていない。あるいは、この辺りのネイティブ・アメリカンに共有されたものなのかもしれない。
イロコイ連邦では、むかしから「何をするにも、七代あとのことを考えて決めなさい。」という格言があるそうです。森の木を切って使いたい、と思ったときに、切って使う自分たちの世代のニーズだけではなく、七代あとの子孫にとって、それがどういう意味を持つのかも考えに入れて、判断を下すのです。
枝廣 淳子著『朝2時起きで、なんでもできる!2』から
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本書の書き出しはこうだ。
あの日、どこで何をしていたか、あなたもきっと覚えていると思う。
確かに、覚えている。でも、特定のただ一つの場所、一つの時ではない。というのも、あの時、ツインタワーに飛行機が激突した時、俺はベトナムからラオスにかけて旅していて、まったくテレビに触れることはなかったから、あの映像を見たのはあれから1ヶ月以上たってのことだったのだ。
今となっては、あの時リアルタイムにほとんど情報を得ていなかったということが、むしろ重要なことのようにも思う。自分にとっては。ほとんど911とは関係をもつことはない形で、あの時の旅は、自分にとって、人生における重要な瞬間の一つとなったのだった。あるいは、その瞬間が、ぴったり重ならないにせよ、911と同じ頃、911とはまったく関係がないなかで、ほとんどそれを知ることもなく、やってきたということは、自分にとって強いプラスであったのではないかとも思うことがある。
ベトナム僧が燃えていた。僧はひとり路上に坐っていた。
(中略)
X師が焼身自殺したのは、1963年であった。
本に戻る。主人公は39年前に焼身自殺したベトナム僧の足跡を辿る旅に出る。
サイゴン、フエ、ニャチャン、それからカンボジアのアンコール遺跡群、プノンペン。主人公の旅と39年前のX師の足跡、それからこれらすべての町にかつて訪れたことのある自分の旅の記憶が激しく行き交いながら、読み進めてゆく。これはあの寺のことだろうか。かつて通った場所。それぞれがそれぞれのやり方で歩をすすめ、時空を超え、交差してゆく。
この本に結論はない。疑問が疑問を生み、円を描いてゆく。
それでも、それぞれの旅はつづく。
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また、村上春樹は、堂々と「語学力」が足りないことを自分の翻訳の一番の問題点としてあげながら、自分が翻訳をすることになんのためらいもない、つまりは難しく考えていない、という印象でその点に関しては、とても好感をもったね。
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内容はまあ、当たり前のことが当たり前に書いてあります。この手の本にありがちですけど…。可もなく不可もなく。途中にいくつか付録のようについてるセルフチェックシートはくだらないですね。ひねくれものの俺には、ああいう自己分析を真面目にする気にはなれません。例えば、「最近どのくらい先のことまで見ましたか?それは何年後ですか?」って言われても、「今しか見てねぇよ!」と答えたくなってしまうの。
まあ、ええわ。飲もう、っと。
それでも返却と同時に、(1)と(2)も借りてきちゃったのでこれから読みます。
テキトーに。
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それでも、これには意味があると信じている。
で、金子光晴である。エロジジイである。失礼、故人に対して言う言葉ではなかったかな。時代ゆえ、多少の読みにくさはある。爪哇(=ジャワ)とか馬来人(=マレー人)とかね。
マレー諸国をわたり歩いた際のその記述は、現代では、人種差別的とみられるおそれすらあるが、彼の多様な人種・文化に対する大いなる興味関心は読むものの好奇心を刺激する。
そうして、彼は、滅びゆくものを静かに記していく。
……追いつめられたダイヤ族もいる。はやくも活力をぬかれ、奴隷となりはてた夥しい半開種族の部落もある。くらやみのなかにいりまじったそれらの悲しい音楽、わけのわからない華やかさは、すべてみな、壊滅にいそぐ美しさなのだ。
狩られ、蹂躙され、抽出され、滅ぼされてゆく命たちの挽歌なのだ。耳をそばたてよ。きこえるものは船側に流れてゆく海水のひびきだけだというのか。
金子光晴『マレー蘭印紀行』より
僕らは滅ぼされてゆくものたちに、もっともっと眼を向けなければならないのだ。旅の途上の一時の休息地であれ、共に住むものであるのなら、なおさらのことだ。
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キューバ人にとって、ダンスは、日曜の午後を優雅に楽しく過ごす、といったものではない。奴隷や移民が生きのびていくためになくてはならないものだった。彼らは、厳しい労働でボロ布のようになって粗末な我家に帰ってくる、キューバのダンスはそこから始まる。正当な疲労と、誇りと、希望を、自らのからだに取り戻すために、踊る。
幼い頃、ダンスを、大切なものを教えてくれたホセ・フェルナンド・コルテスに会い、ありがとう、と言う、そして一緒に踊る、うまくなったね、と言ってもらう。それだけの目的をもって、キョウコはニューヨークへと渡った。そして、それはキューバへと続く道の途上だったのだ。
ダンスが、踊ることが、生きていくことに直結しているというのは、俺にはスッと納得できるものだった。西アフリカのガンビアでの活気に満ち満ちたダンスを見た後の俺には、なおさらのことだ。今覚えば、彼らは「正当な疲労と、誇りと、希望を、自らのからだに取り戻すために、」踊っていたように思える。
かつて奴隷貿易の一大拠点となったあの場所、この場所からアメリカへと奴隷として連れ去られた祖先クンタキンテ以後の系譜を辿ったアレックス・ヘイリー著『ルーツ』のはじまりの場所、2週間前に訪れていたその場所を思い起こす。
夕暮れ時に、一日の労働を終えたガンビアの男たちと女たちが、太鼓の響きに導かれるようにして、ストリートに繰り出し、思い思いの踊りを披露する。皆、互いのダンスを意識するのだけれども、互いにステップをあわせたりは決してしない。意識しているのは、音楽であり、また、生きること、つまり誇りと希望だ。おそらく。
キョウコが学んだこと。それは自分がいつでも、どこでも、どこかへ向かう途上にいるのだ、ということ。いつだって、この場所はゴールではない、ということ。そして、今では使い古され、小便をひっかけられ、乾ききってしまったようにも思えるあの言葉が蘇ってくる。
人生は旅だ。
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