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March 17, 2007

知らない俺だから世界を救える - ナハーナ未来図

西アフリカ、ブルキナファソの首都ワガドゥグでのこと、同じ宿に泊まっていた初老の男が、ある日おもむろに近づいてきて、「知らないよりも知っていたほうが良い」と語りかけてきた。男はギリシャ人の彫刻家で、男の妙に哲学ぶった佇まいが俺は好きになれなかった。俺は男の発言を否定した。そうとはかぎらないだろ。なぁ、そうとはかぎらないだろ?

マイナーな分野に献身している者はしばしば、何にせよまず興味を持ってもらえるだけでいい、と言う。まず知ることがきっかけになる、という言葉もよく聞かれる。でも、俺はこの言葉に、賛同する気にはなれない。確かに、知ることは次へのきっかけになりうる。しかし同時に、知らないということもきっかけになるのだ。

俺が人々との関わりの中で気になるのは、あるいはNagana Japanで目指しているものは、そのきっかけに関わる部分であり、知識を伝播することでは決してない。だから、ときには何も話さないことが、語りつくすことよりも大切だったりするのだ。

そして、その大切な部分は、しばしばナハーナ(≒イマジン)が鍵を握るように思える。

バス174というブラジルのドキュメンタリー映画を思い起こす。バスジャックを決行した男に対して、それをテレビ中継で見た人々は、バスジャックとしての男しか知らなかった。否、知ろうとしなかったのだ。猛烈な怒りで男を処刑しようとした人々ほど、ある部分では男に対して無関心だった。無知の知に対して無関心だと、あるいはナハーナが欠如していたとも言えるかもしれない。

いつでも、恥じるべきは無知ではなく、無関心が先に来るべきだろう。知らなかったと悔いてばかりいる人は、たぶんきっと同じようなことを繰り返す。悔いるべきは、それ以前の領域であるべきなのだ。そう、あのとき俺はなぜ知ろうとしなかったのだろう。

人々がもう少し世界を知れば、世界は今より良くなる。そう断言することは決してできないのだ。確かにそうなるかもしれないが、同時にそうはならないかもしれない。どんな理想的な仮定をたててみても、未来は常に不確かなのだ。そのことを忘れて知識を過信してしまうなら、どんな教育や報道もたちまちその意義が失われてしまう。俺にはそう思えてならない。

それでも、俺には言える。世界はきっと素敵な未来を見せてくれるし、あなたはきっと幸せになれる。俺はあなたのすべてを知らないから。それから、いつでも一握りのナハーナを大切にしているから。この想いは、誰がなんと言おうと、無責任なものでも、無関心ゆえのものでもない。

投稿者 Kazu : March 17, 2007 04:29 PM



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